Under the roof

三児の父が育児、家事、読書のこととか書きます

ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう

面白そうなタイトルに惹かれて読んでみたら、かなり骨太な内容。
”意識のハード・プロブレムに挑む”
まず、意識のハード・プロブレムとはなんぞやと。

脳には、考えたり、記憶したり、刺激に反応したりといった能力が備わっている。例えば僕がこの文章を考えているとき、僕の脳では記憶と思考を駆使して文章を考え、手を動かしたり画面を見て入力した文字を確認したり、この文章を作成するための指令を全身に送っている。

これは神経や細胞やシナプスや化学物質や電気信号が脳内に作用して、脳のこの辺が反応することによってこの文章を考えている、その近くのこの部分が手を動かすための指令を送っている、といった、脳内の物理的な反応で起こっている。ということは誰でもわかるだろう。
こういう、脳では何が起こっているのかを解明するのを”意識のイージー・プロブレム”と言う。イージーだから簡単なほうだ。

ハードプロブレムなんだから、内容はもっと難しい。上記のことに加え、例えばブログを書いていたら文字を間違って入力してしまい、すぐに文章を直すため、BSキーを連打して書き直す位置までカーソルを戻す作業をしながら、間違えたことに対して少しイライラを感じたとする。
「間違ったことに対して、イライラを感じた」この、主観的な体験を「クオリア」と言う。この「クオリア」とは何なのか、それが脳の反応とどう関係するのか、を解明するのが”意識のハード・プロブレム”にあたる。

「間違いを見つけたから、それに脳が反応して化学物質を分泌させてイライラを感じる反応が起きた」はイージー・プロブレム。
「間違ってたからイライラした」という感覚、そのクオリアとはいったい何なのか、いかなる相関関係によって成り立っているのかを解明するのがハード・プロブレムだ。

本書ではその”意識のハード・プロブレム”を解明するために、長い道のりをかけてひとつひとつの謎をつぶす形で結論へと向かっていく。哲学的な問題で、遥か昔から議論に議論を重ねてこられたものであり、それに対して「これだ」という答えは今だ示されてはいない。哲学なんだから当たり前かもしれないが。
それに対して、著者は冒頭で「玉砕上等」と宣言している。本書は”意識のハード・プロブレム”に”挑む”のであり、著者なりの決着を付けるための1冊なのだ。

一度読んだだけで理解するのは難しい。それどころか巻末の膨大な注釈や関連書籍を漁りだせばキリがなくなるだろう。ただ、表題である『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』についての一つの決着を本書のみで得ることはできる。僕も表題に惹かれて読み始めたクチなので、本書の長い長い道のりに何度も行きつ戻りつして四苦八苦だったが、丁寧に辿っていく道筋には必ず”今何処にいる”というしるしを著者が示してくれるので、時間さえかければ必ず元の道に戻ってくることができる。

とりあえず、タイトルに惹かれたなら手に取ってみるのはアリだと思う。