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【書評】『イワン・イリイチの死』

 

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

 

 

再読。
きっかけは、先日読んだ『死すべき定め』 

 

tojikoji.hatenablog.com

 

『死すべき定め』において、冒頭で『イワン・イリイチの死』のあらすじについて触れられる。
物語は、イワン・イリイチの葬儀からスタートする。
タイトルは『イワン・イリイチの死』で、しかも葬儀の様子から開始するので、イワン・イリイチは間違いなく死ぬことが読者に対し明らかにされる。葬儀のシーンの後、時間は巻き戻り、イワン・イリイチが生きていたころ、どんな人物だったのか、どんな生活をしていたのかが描かれ、そしてなぜ死に至ったのか、死に至るまでに何を感じたのかが描写されていく。

イワン・イリイチは、帝政ロシアにおけるエリート官史で、家族を持ち、裕福な生活をしていた。友人との晩餐会や、カードゲームなどの遊戯を楽しみ、妻から生活の不満などを言われれば家庭から逃げて仕事に集中する。社会的な地位を第一に考え、その安定した基盤の上で自分が描く理想の生活を謳歌する。当時のロシアにおいて、エリートが歩むべき人生とはこうあるべきだ、という道のど真ん中を進むような生活をしていた。

そんなイワン・イリイチが、ある日自宅で「はしごから落ちて脇腹を強く打つ」という怪我をする。はじめはなんてことのないただの怪我だと思っていたものが、徐々に体調を狂わせ、そして最終的に彼を死に至らしめてしまう。

ただの打撲だと思っていたものが、だんだんと致命的なものに変わっていく描写は、生々しさを超えて恐ろしさを感じる。本書の冒頭において葬儀が行われているので、イワン・イリイチはこの怪我により命を落とすことは明白だ。だが、逆に死ぬとわかっているからこそ、死にたくないと病に対して抗う姿、死を受け入れられない感情がより強く伝わってくる。「死なないかもしれない」じゃなくて、絶対にこの怪我で「死ぬ」のだ。絶対に死ぬイワン・イリイチの運命をとおして、それを読んでいる僕たちだっていつかは絶対に死ぬことを思い出す。

イワン・イリイチは、どんどん悪化する自分の容態によって、ある時点から死を覚悟するようになる。すると、それまで死に対し恐怖を抱き、逃れようと必死にもがきながら、なぜ自分がこんな目にあわなければならないのかという怒りや憎悪に近い感情から、一転して野望やうぬぼれのない、安らぎを求める気持ちへと変化する。
目前に迫った死に対して、イワン・イリイチは自分の気持ちに寄り添ってくれる、人との絆を求めた。しかし、実際には妻や友人、そして妻が雇った名医たちが彼にかける言葉は一様に「きっとよくなる」という、もはや嘘としか受け取れない、心のこもっていないものばかりだった。
自分は死ぬ。だから、頼むからそんな自分のことを憐れんで、気持ちに寄り添ってほしかったのに、誰もその気持ちを汲み取ってくれない。これはもう、死さえも超えた絶望と孤独感だろう。誰も、自分の気持ちを分かってくれないと感じながら死ぬ、という事実の恐ろしさ。

そんななか、従者であるゲラーシムという男だけが、イワン・イリイチの苦しみを理解し、その気持ちへと寄り添うようになる。家族や医師が心無い言葉をかける中、ゲラーシムだけは、いずれ自分だってこうして死を迎えるときが来ると理解し、死すべき定めにあるものの気持ちに寄り添おうとしてくれる。ゲラーシムのおかげで、イリイチは人との絆という安らぎを得られたのだ。

イリイチは最終的に、自分が健康だったときに積み上げてきたものはただの虚像であったことを認める。社会的な地位ばかりを求めたため、人とのかかわりをおろそかにしたことを悔いたが、手遅れになってしまった。そんな後悔を抱えながら、最期の時を迎え、物語は終わる。

読み終えた後、また冒頭の葬儀の場面を読み返す。すると、最初に読んだときはよくある葬儀中の家族と参列者とのやりとりだと思えた会話が、いかに記号的で中身のないものかということを思い知らされる。「あー、死んじゃったかー、俺には関係ないけど」って気持ちがありありと感じられる。

本書で浮き彫りになるのは、健康に生きている人と死の淵に瀕している人との「断絶」だ。そして、そんな孤独と恐怖に襲われた人にとって必要なのは、ゲラーシムのように気持ちに寄り添うということだ。

 

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これは、以前読んだ『なぜ私だけが苦しむのか』のなかにもある。あなたはひとりじゃない、あなたのそばにいる、ということこそが、絶望の淵にいる人にとって本当に必要なことなのだ。

死は必ず全員に訪れる。が、それを先に経験することはできない。そんなままならない死に対する、心の予防線として、一度は本書を読んでみることをおすすめしたい。