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Under the roof

三児の父が育児、家事、読書のこととか書きます

【書評】『あなたのための物語』なぜ、死を受け入れなければならないんだろう?

 

あなたのための物語

あなたのための物語

 

 

【書評】『死すべき定めーー死にゆく人に何ができるか』 - Under the roofを読んだ後、死について書かれた小説をいくつか読んでみようと思った。丁度、『【漫画】『バーナード嬢曰く。』3巻 - Under the roof』の2巻にて、トルストイの『【書評】『イワン・イリイチの死』 - Under the roof』とともに紹介されていたのがこの小説だったので、本書を手に取ってみた。

 

物語のスタートは、『イワン・イリイチの死』と同じく、主人公が死ぬところから始まる。『イワン・イリイチの死』では、イリイチ自身の葬儀の様子から始まったが、本書では主人公サマンサ・ウォーカーが、自宅で血反吐を吐きながら苦しんで死ぬ様子が描写される。何も知らずに読み始めると、まさかこの壮絶な死にざまを見せつけたサマンサが物語の主人公とは思えないような、強烈なシーンで幕を開ける。

 

舞台は2084年。自動運転技術や、「環境セル」と呼ばれる温度調節や端末操作機能を有した着用するもの、つまり宇宙服のような機能を擁した服など、今からでも想像できるような未来の技術が当たり前に使われている時代。ただし、それはまだ一部の富裕層しか利用できないような状況にある。脳神経と電動義肢を接続する人工神経を開発する「ニューロロジカル社」の重役であり開発者でもある主人公サマンサ・ウォーカーは、こうした最先端技術を用いながら、会社の研究室において一体の人工知能を起動する。


≪wanna be≫ー”なりたい”と名付けられたこの人工知能に対し研究チームは当初、人間と同じような教育を施し、物語を書くという課題を与える。AIが、人間と同じように「喜び」や「悲しみ」を感じ取り、一本の小説を書き上げることができるのか。電動義肢における神経伝達技術の上を行く、人間の脳に直接「嬉しい」や「悲しい」といった脳神経の伝達を促す技術開発に生かすために、この研究が発足する。

 

小説を書くAIの成長、というだけでも面白い小説になりそうだが、物語の途中で主人公サマンサが死に至る病を患うことで、病気によって死と向き合わざるを得ないサマンサと、肉体を持たないがゆえに病気の苦しみや死の本質を理解できないAIとの対話という形式をとるようになる。

 

富と名声を得ながらも、自分には仕事しかないと盲信し、死ぬまで研究を続けようとする「傲慢さ」の象徴のようなサマンサ。その傲慢さは自らが死ななければならないという現実にも向けられ、病気で使い物にならなくなる肉体という弱い器を呪いさえする。

 

『イワン・イリイチの死』において、人は死にゆくときに最後に求めるものは人と人との繋がりであると示される。死にゆく者の気持ちに寄り添い、ひとりじゃないと思わせてくれることが必要だと。


しかし、サマンサは全く逆を行く。会社は半年後に亡くなるとわかっているサマンサから、重要な仕事を強制的に別のものに引き継ぐが、サマンサ自身は仕事をし続けるという選択をする。婚約者や子どもはおらず、オレゴンの田舎に残した両親しか肉親のいない彼女は、今まで仕事がすべてであったため、何もせずゆっくり体を休めて死を待つの性分に合わないためだ。
サマンサは、ひとりっきりになった研究室で、死にゆく自分の肉体を恨みながら自分なりの研究の成果を求めひたすら仕事に打ち込む。そこに唯一残されたAI≪wanna be≫もまた、研究の結果が出来次第削除される予定だった。言うなれば≪wanna be≫も死にゆく存在だ。だが、≪wanna be≫は自分自身がいずれ消去されると知っても、それをすんなりと受け入れる。人間と同じ思考をするために作られたはずの≪wanna be≫は、人間と同じような恐怖を感じない。

 

死に対し抗うサマンサと、死をすんなりと受け入れた≪wanna be≫。相対するふたつの思考は、どちらが正しいというものではない。サマンサは病状がどんどん悪化し、何度も仕事を中断することになる。そんなときに体を休めながら感じた他人との繋がりに、死への憎悪を忘れて安らかな残り時間を過ごすことを夢想する。「そうだよ!死に対し抗わずに、自分の運命を悼んでくれる人と残された時間を共有すれば『生きた証』になるだろう!もう戦うなよサマンサ!」と読みながら何度も思ったが、サマンサは決して死に対する抵抗をやめない。
それはこの世界においてはAIがすでに存在し、ゆくゆくは『肉体の死=命の終わり』という構図が終了するという未来がすぐそこに来ているからだ。『死なない命=AI』が目の前にいて、死を免れる時代がすぐそこかもしれないのに、なぜ自分は死ななきゃならないのか、と考えれば、ひたすら抗うのも仕方ないことだ。

 

そう、『イワン・イリイチの死』の時代は過去のものなのだ。クラーク『幼年期の終わり』やイーガン『ディアスポラ』の世界でも、肉体は棄てて死は乗り越えるものとして描かれる。人間は脆い。病気、事故、老化でいずれは死が待っている。死が待っているからこそ「人間らしく生きる」ことができると考えられる面もあるだろうが、サマンサのように病気が差し迫った状況で「人間らしい最期」を悔いなく迎えられることが果たしてできるだろうか。

 

今はまだ、『イワン・イリイチの死』において示されたことは正しいと言えるとは思う。だが、いずれサマンサのように死を受け入れるべきではないという道へも、人類は進んでいくことになるだろう。もし死から肉体が解放されたなら、人間はさらに可能性を広げられるのか、はたまたAIのように人間らしさを失うことになるのか。死から解放されることで得られる可能性についても考えさせられる一冊だった。