Under the roof

三児の父が育児、家事、読書のこととか書きます

【書評】教育は理想の押し付けになっていないか?『掃除で心は磨けるのか』

 

掃除で心は磨けるのか (筑摩選書)

掃除で心は磨けるのか (筑摩選書)

 

 

我が家の子どもたちは長男7歳・長女4歳・次男2歳の三人きょうだい。その長男が、今年小学1年生になった。
長男にとって「初めての学校」
僕と妻にとっては「初めての小学生保護者」
わからないことばかりで長男も自分たちも毎日あたふたしている。

 

2018年4月から、義務教育における「道徳」の授業が「特別な教科」となり、正規の授業のコマ割りとして扱われるようになった。

正規の授業になったことにより、通知表などの評価対象にもなるということだ。
「道徳の授業」で「個人個人を評価する」って、一体どうするんだろうという意見もネットなどで目にした。

自分が小中学生の頃にも「道徳」の授業があったことは覚えている。毎週ではなくて月に何回かという、特別枠みたいな扱いの授業だったが、しっかり教科書を使って授業をしていたはずだ。
ただ、あくまで「教科書を読んで考えよう」みたいなものがメインで、それをテストとして評価に反映しようといったものではなかったと思う。

僕は道徳があまり好きじゃなかった。元々自分の考えを言語化して他人に伝えたり、わかってもらおうと努力するのが苦手で、恥ずかしさとか笑われたくないといった感情が先行してしまい、うまく主義主張をすることができない子どもだった。

そんなせいで、道徳の時間は「周りの意見に合わせて当たり障りのない答えを導く」という、授業の本質から外れた方法でやり過ごしていた。
学校の道徳で何かを学んだかと聞かれると、自信を持って答えられるものは自分の中にない。

 

話がそれたが、本書はこういった「道徳の教科化」をはじめとする、今教育の現場で起こっている改革や現象について、著者の視点を交えつつ、教育は本当にこの方向へ進んでいっていいのだろうか、もう少し客観的に考えるべきではないか?という提言をするような内容となっている。

個人的に特に気になったというか、当事者にとってはかなり辛い状況だろうと感じたのが「弁当の日」についての部分だ。

うちの子どもたちが通っている保育園にも「弁当の日」が設けられていて、この日はいつもより1時間くらい早起きして子どもたちの弁当を作っている。
キャラ弁みたいな凝ったものでなくても、バランスを考えて玉子焼きや煮物なんかを、子どもの人数分作っているといつも完成するのが家を出るギリギリくらいの時間になってしまう。なのでうちのイメージでは弁当の日=大変な日という構図になっている。

子どもたちは弁当を楽しみにしているので、一概にダメとは思わないが、もしこれが毎日だったらとんでもない負担だなとはいつもいつも思っていた。

 

で、本書に掲載されている町田市の公立中学でのケース。
昨年はてなブックマークでも話題になっていたので覚えているんだが、町田市の公立中学校では完全給食になっておらず、注文式の有料の「ランチボックス」か、弁当持参のどちらかの昼食を自分で選ぶ方式になっているのだそうだ。

この「ランチボックス」のクオリティがあまりよろしくないようで、人気もなく喫食率が低いらしい。
となると弁当を作る保護者側の負担が大きくなり、市の教育委員会に全員給食を願う請願書が提出された。
正直、自分もこの状況なら間違いなく請願書に署名していると思う。中学校で給食がないなんて考えられない。


本書にはこの請願書提出後の市における審議のやりとりが収録されており、保護者代表の母親2人に対して市議会議員からの辛辣な言葉が掲載されている。

「手抜きするな」「子供のために弁当を作るのは当たり前」のような、上から目線の議員からの反論には、読んでいてかなり頭にきた。じゃあお前やってみろよと。共働き家庭で朝の貴重な時間にバランスの良い弁当を作ることがどれだけ大変かわかってないだろうと。「専業主婦もいるから」とか「親の愛情でカバーしろ」とかは聞き飽きてるんだよ。大変なのは子どもだけじゃなくて親もなの。親が辛いから給食提供してって2万人以上が請願を出しているのになんで「私だったら子どものために弁当作りたい」みたいなトンチンカンな反論してくるのか理解できない。

 

このケースだけでなく、道徳の授業でのこういった「家庭の愛情」みたいな古い観念もそうなんだが、教育の基盤を作っていく政府や行政側が、家庭や学校側に理想を求めすぎで、制度を作る側と受け取る側の溝が埋まるどころかどんどん不気味な方向へ広がっているような印象を受けた。正しい道徳を学校で学び、家庭で愛情たっぷりに育てられた「理想的な子ども」を作るのが目的になっていやしないだろうか。こういう理想ばかりを追求していては、そこから落ちこぼれたりついていけなかったとき、社会で生き残って行くためにどうするべきなのだろうか。
「自己責任」で切り捨てるような風潮になれば、より一層取り残された側とそうでなかった側との分断は進むだろう。
そこに対するフォローが追いついていないどころか、まるでそんな暗闇は見て見ぬ振りをするのが当たり前になってきているようにも映る。

本書において提示されている疑問点全てに「その通りだ!日本の教育現場はおかしい!」と賛同するわけではない。ただ、教育の姿勢として理想ばかりを求めるのは、直視したくない現実からの逃避であったり、自分たちが本当に困った時にどうすればいいのかという方法を蔑ろにされているように感じてしまう。
だからこそ、著者の言うように、一度立ち止まって現状を考え直すことも必要なのではないかと考えさせられる一冊だった。