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【書評】生活を学問する。『「家庭料理」という戦場: 暮らしはデザインできるか?』

 

「家庭料理」という戦場: 暮らしはデザインできるか?
 

 

”暮らし”を”デザイン”するという言葉は、CMや雑誌やネットで「よく目にする」言葉だ。

ホームセンター、家具屋、ファストファッションブランドの店頭展示ではシンプルでモダンなデザインの家具、服、キッチン用品の展示を目にする。

おしゃれなワンプレートのランチで楽しそうに談笑する家族。対面式のキッチン。日当たりのいいリビング。

ステレオタイプなイメージだが、憧れを抱く生活には一定のパターンがあるように感じる。丹念にデザインされたそれは、所謂「生活感」というものを感じさせないことが多い。テーブルや床に物が溢れ、統一感のない食器や家具を使う生活とは一線を画したものだ。

無論生活の基盤には衣食住があり、おしゃれなワンプレートを食べても、カップラーメンを食べても、腹は満たされるという結果に変わりはない。だが、ワンプレートこそが丁寧な憧れの生活であり、カップラーメンにはそれがないのだ。

家事労働は本来とても煩雑であり、できる限り簡素化するためにカップラーメンなどを利用することは労力や時間の側面から見れば当然間違いではない。だが、それと相反するようにデザインされた生活ではおしゃれな食事を当たり前に提供し、その裏に隠れた煩雑さにスポットが当たることはない。食事に手を抜くことでそれ以外に使える時間が増えるのは誰にとってもメリットであるにもかかわらず、カップラーメンの食事は悪であり、おしゃれでバランスのいい、但し煩雑な準備が必要な食事は善なのだ。
これには家事労働に対して手抜きすることの罪悪感が日本には古くからあるためだと本書は主張する。

だからこそ、女性誌やテレビなどにおいて人々は丁寧な暮らしを求め、時短といった言葉のもと、いかにして楽して、かつ丁寧な暮らしを送るかに焦点が当てられることが多いのだ。

そして、時短と丁寧な暮らしの両立を求める現代の生活イメージを築いた祖として、小林カツ代と栗原はるみの2人のレシピについて「対決」という手法を用いつつ、生活とはいかにデザインされてきたかということを詳細に分析していく。

小林カツ代のレシピの特徴は、今では誰もが知る言葉である「時短」だ。ワンタンを包まずに挽肉とワンタンの皮をスープに浮かべる「わがままワンタンスープ」は、口に入れれば結果的にワンタンスープには変わりないという発想の転換により料理時間を劇的に短縮したものだ。それだけでなく、ワンタンスープを普段の食卓のおかずの一品に据えやすくするという点で家庭料理に対して多角的に影響を及ぼした。味噌汁一辺倒になりがちな食卓の汁物において、気軽にワンタンスープを提供できるという”選択肢の増加”が及ぼす者は大きい。

家庭料理は献立作りとの戦いだ。「料理を作れる」だけでは家庭料理の提供とは言えない。「毎日の献立をバランス良く考え、差し迫った時間の中で家族に提供する」ことが『家庭料理』であり、好き嫌いで食べてくれない子どもたちに野菜を食べさせる工夫や、食後の後片付けを効率よくこなすことまで考慮する必要がある。すべて漏れなくこなすにはそれ相当なスキルが必要であり、手間のかかる家庭料理を一から作っていたのでは暮らしのデザインにはほど遠い。だからこその時短であり、バラエティに富んだ美味しい料理を提供することが暮らしをでデザインすることに繋がっていくのだ。

そして栗原はるみのレシピは、俗に言う「お袋の味」ではない、街のレストラン、ひいてはファミレスなどで提供されるような「手の込んだ洋食」風の、しかし家庭でも簡単に作れる料理が多い。

これらのレシピは、見た目が華やかで外食にも負けないようなインパクトがあり、かつ特別感を日常に演出する、料理そのものだけでなく食卓や雰囲気などの周辺にまで影響を及ぼすようなものだ。

著者は小林カツ代の「家庭的な」レシピと栗原はるみの「ファミレス的な」レシピは相反するものであり、無言のまま激しく争っていると言い切る。

家庭的な食事は、時短という工夫を含めて手作りの愛情と家事労働の簡素化という生活基盤を支える点で優れるが、デザイン性は薄い。ファミレス的な食事は煩雑さから解放されないが、それを補うデザイン性があり、デザイン性からの充足感により煩雑さに目をつぶることになる。著者の言うとおり、このふたつは相反する目的を持っている。

だが、別々の道ではあるが家庭料理に対するベクトルを進めたという点で共通しており、時代が進むにつれて大きく広がってきた軌跡だとも言える。

それを本書を通じて認識することにより、自分にとっての家庭料理を含めた生活を捉え直すきっかけになるだろう。