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【書評】取り残されたものたちの哀歌『ヒルビリー・エレジー』

 

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 

 

とても面白かった。Twitterのタイムラインで何度か見かけて、そのどれも評判がよかっただけのことはある。

 

本書におけるヒルビリーとは、アメリカの中央よりもちょっと東側に位置する「ラストベルト(錆びついた工業地帯)」と呼ばれる、アパラチアから五大湖周辺の地域に暮らす白人労働者たちのことを指す。ほとんどが18世紀ごろ移住してきた「スコッツ・アイリッシュ(スコットランド、アイルランド系の人種)」であり、特に「田舎者」という意味を込めてヒルビリーと呼ばれている。つまりタイトルを直訳すると「田舎者の哀歌」ということだ。


著者もそんな「ヒルビリー」の一員であり、ヒルビリーたちの置かれている嘆かわしい現状を自伝的に記した一冊となっている。


アメリカにおける貧困と言えば、黒人やヒスパニック系の世帯の貧困ばかりが取り沙汰されるイメージがあるが、そこにはおそらく人種差別的な要因を含んだ貧困であり、ヒルビリーたちの現状とは違う。ヒルビリーたちは差別の対象ではなく、過去は日雇い、炭鉱労働者として、近年は工場の労働者として、代々貧困を受け継いできた人たちだ。


彼らに共通した問題は、「自分たちが貧乏なのは自分のせいではない、国や社会が悪いのだ」といった他力的な考え方であり、自分の力で生活を向上させようといった意識の欠如である。


せっかく社会保険等の制度が充実した工場等の仕事に就くことができても、そこで「真面目に働く」ことができる人が少ない。欠勤を繰り返し、仕事中にトイレに行って30分以上帰ってこないのを1日に3~4回繰り返す、などといった怠惰な勤務態度を続け、解雇される。こんな勤務態度を取ってしまう人が多くなる原因として、家庭環境の悪さがある。アルコールやドラッグが蔓延し、若くして結婚した夫婦はヒステリックな喧嘩やDVを繰り返す。当然のようにひとり親家庭が多くなり、母親は何度も新しい男を連れてきてはDV沙汰を起こして離婚。


このようにして、「父親」と「自分の名字」と「住む場所」が頻繁に変わるような生活を続ければ、「正当な教育を受けて努力し、良い学校を出ることにより貧困から脱出しよう」という気力がなくなってしまうのも当然だろう。それはつまり、子どもたちも親と同じく貧困に苦しみ暴力とドラックの蔓延する世界へと歩みを進めることになるということだ。

 

著者自身もそんな環境で育った。ヒステリックに怒鳴り散らす母親が著者に対するDVで逮捕されるが、釈放のためにDVを受けた著者自身が警察でウソの証言をする。ドラッグに溺れた母親が、看護師免許の更新のために必要な尿検査用の「クリーンな尿」を提出するために息子に尿をくれとせがんでくる。トラウマ物の経験ばかりだ。

そんな環境においても、著者は姉や祖母の庇護を受けてイェール大学を卒業し、弁護士にまで上り詰めた。

 

本書は、アメリカにおけるヒルビリーたちの問題をマクロに捉えるだけでなく、ヒルビリーの一員として育った著者自身のミクロの視点、それも細部の心理的な部分も含めた描写がされているがゆえに得られる「どうしようもない」という空気が凄まじい。ヒルビリーの人たちは、自分ひとりで自分の生活をよくできる、自分の選択が将来を変えるとは考えておらず、悪いのは社会、悪いのは自分たちを貧乏にした政府だと思い込んでいる。
これは、先の大統領選挙における、接戦を制する直接的要因となったトランプ支持者の言動とピッタリ重なる。強いアメリカが戻ってくれば、移民に仕事を奪われた自分たちにも、きっといい仕事、いい生活が戻ってくると信じ、ヒルビリーたちはトランプを支持した。

 

だが、著者はヒルビリーたちの抱える問題は、政府や社会や企業や移民によって作り出されたものではなく、ヒルビリー自身が作り出したものだと語る。それを解決するためには、自分たちで状況を好転させるしかない。投票により自分たちの意思を結果に結びつけたという点では、トランプ当選にも大きな意味があったのかもしれない。だが、それはまだ始まりだ。問題の本質的な解決には、ヒルビリー自身による状況の好転が必要となるだろう。

 

個人の視点から貧困と暴力とドラッグと無気力が支配する世界で、様々な葛藤に晒されながら著者が成長していく様は、下手な小説を読むよりも断然面白かった。
そして、これはヒルビリー特有の問題ではない。親の世代の貧困に引っ張られ、無気力に陥ってしまう子ども世代や、所謂「毒親」と呼ばれる子に悪影響を与えかねない親たちによって将来の展望を潰される子どもたちは、日本にも多くいる。何より自分こそが、そういった毒親にならず、子どもたちの可能性を狭めないように気を付けなければならない。